し ら せ  の ぶ   

白瀬矗


瀬矗は、文久元年(1861年)6月13日、秋田県由利郡金浦(このうら)村(現秋田県にかほ市金浦)に生まれました。実家は、浄蓮寺というお寺で、こ の寺の長男でした。後に、矗と改名するまでの幼名を知教(ちきょう)と言いました。彼は、近所で評判になるほど、血気盛んな腕白少年でした。狐の尻尾を 折ったり、可愛がっていた子犬を噛み殺した狼を鎌で一撃を食らわせやっつけたり、千石船の底潜りに挑戦して失敗し、死の危機にさらされたり、150人と血闘したりなど、その腕白ぶりを物語る話には、事欠かないようです。

 そんな矗に、探検家を志す切っ掛けとなったのが、佐々木節斎という寺子屋の先生との出会いであった。佐々木は、出羽久保田藩(現在の秋田市)出身 の平田篤 胤の高弟とも言われる人物で、矗に、読み書きそろばん、四書五経を教えることは言うに及ばず、コロンブスやマゼランの話、フランクリンの北極探検航海の話 をして聞かせたのだった。11歳の頃、北極の話を聞いた矗は、探検家を志すようになり、佐々木先生から、5つの戒め(酒を飲まない 煙草を吸わない 茶を 飲まない 湯を飲まない 寒中でも火にあたらない)を受け、初志を貫けと教えられた。矗は、この5つの戒めを、生涯守り通す。

 矗は、母 の実家がある山形市 七日町の小学校を卒業後、僧侶になるために上京するが、実家の僧職を継ぐことを断念し、探検家になる初志を実現するために、軍人になるべく日比谷の陸軍教 導団騎兵科に入団し、知教から矗へと改名する。明治12年(1879)年のことであった。明治14年(1881年)教導団を卒業後、輜重兵に転科し陸軍輜 重兵伍長として仙台に赴任する。翌年、宇都宮で行われた大演習に騎兵として参加した時に知り合った児玉源太郎の薦めで、北極探検の前に、まずは、千島探検 を目指すことにする。 明治20年(1887年)には、仙台市二日町の海産問屋の娘、やすと結婚している。



治26年(1893年)、 幸田露伴の兄である郡司成忠大尉が率いる千 島探検隊に加わった。そして、この探検は、その杜撰な探検計画のため、千島列島到着以前は、暴風雨による遭難で19名の死者を出し、そして、最終目的地で ある占守島(しゅむしゅとう)に到着する前に、捨子古丹島(しゃすこたんとう、9名)、幌筵島(ぱらむしるとう、1名)に残した隊員も死亡させている。白 瀬は、郡司ら7名は、占守島で越冬するも、翌年明治27年(1894年)5月、軍からの強い要請で、郡司は軍艦「磐城」に乗って帰還することになる。郡司 は、当初全員を帰還させるつもりだったが、千島開発継続のために残留を強硬に主張した郡司の父の代わりに、白瀬は、交代要員の5名とともに占守島に残留 し、2年目の越冬生活に入るも、その生活は悲惨を極め、白瀬を含む4人は、壊血病に罹り、白瀬以外の3人は死亡、罹患しなかった2人のうち一人はノイロー ゼ、白瀬自身も、死の危機に直面、明治28年(1895年)になって北海道庁長官の命で派遣された「八雲丸」に救出されている。この後、明治33年 (1900年)、白瀬は、国家事業として千島の経営を帝国議会に請願、10万円の予算が通過するも交付されないので、密漁船でアラスカに渡り、6ヶ月間を 北緯70度で過ごしている。



治42年(1909年)、アメリカの探検家・ロバート・ピアリーの北極点踏破のニュースを聞き、大きなショックを受け、北極探検を断念する。そして、 目 標を南極点へ変更するが、アーネスト・シャクルトンが南緯88度23分に到達したというニュースを知り大いに落胆するも、さらに、ロバート・スコットが、 来年も南極探検に挑戦するとイギリス政府が発表すると、白瀬は、スコットとの競争をただちに決意した。明治43年(1910年)、白瀬は、南極探検に対す る費用補助(10万円)の請願(「南極探検ニ要スル経費下付請願」)を帝国議会に提出し、議会は、3万円の援助を議決するも、政府はその成功を危ぶんで支 給せず、渡航費用は、結局、国民の義援金によった。スコットやアムンセンが、政府の援助によって南極探検をおこなったのとは真反対の、対照的な扱いでし た。船の調達も困難を極め、東郷平八郎によって「開南丸」と命名された船は、僅か204トンという積載量の木造帆漁船で、中古の蒸気機関を取り付けるなど の改造を施したものでした。そして、極地での輸送力は29頭の犬のみだった。政府の冷淡な対応とは対照的に、国民は大いに熱狂し、同年7月5日に、南極探 検後援会(会長、大隈重信、幹事、三宅雪嶺他)が発足する。

年11月29日、芝浦埠頭を出航したが、航海中、ほとんど犬が原因不明の死を遂げたり、隊員の間に不和が生じたりしたものの、翌明治44年(1911 年)、物資を補給するためにニュージーランドのウェリントン港に寄港したのち、2月11日出航し南極をめざす。この時、もう夏の終わりが近づいていた。そ して、3月14日、南緯74度16分、コールマン島付近で氷塊に遭遇し、前進不可能と見た開南丸は、オーストラリアに引き返し、5月1日、シドニーに入港 する。この時、書記長の多田と船長の野村が資金調達のために帰国、後援会内部で会費の使い込みが原因で内紛が起きている、一方、シドニーでは、スパイ船の 嫌疑をかけられるも、無事上陸し仮小屋とテントで生活して夏を待っていたものの、こちらでも内紛が生じ白瀬毒殺未遂事件が起きたとさえ言われている。その 後、11月19日、樺太犬を連れ帰った多田とともにシドニーを出航、翌明治45年(1912年)1月16日、遂に南極大陸に上陸し、その上陸地点を「海南 湾」と命名するも、ここは、上陸、探検に不向きであったため、ロス棚氷、ホエールベイに向かい、1月20日、白瀬隊長を含む5名が、28匹の樺太犬が引く 2台の犬ゾリで、南極点をめざし出発した。しかし、すでに、アムンセン隊が、前年12月14日に南極点に到達しており、スコット隊も、白瀬たちが、南極上 陸を果たした翌日1月17日、南極点踏破に成功している。この時点で、白瀬隊は、目的を南極点踏破から、科学調査に変更している。隊は、厳しい寒気と暴風 雪に見舞われ、2台の犬ゾリが、離ればなれになるというトラブルに遭遇し、1月28日、走行9日、走行距離282キロの地点で前進を中止した。そして、午 後0時20分、南緯80度5分・西経165度37分の地点一帯を「大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名、隊員全員で万歳三唱をした。ま た、同地に「南極探検同情者芳名簿」を埋め、日章旗を掲げて「日本の領土として占領する」と先占による領有を宣言している。


治45年2月4日、海南丸は、南極を離れウェリントン経由で、帰国の途についたが、海が大荒れになったため連れてきた樺太犬21匹を置き去りにせざる を 得なくなった。(6匹は生還)このために、犬を大事にする樺太出身のアイヌの隊員は、後に民族裁判にかけられ有罪を宣告されたという。6月20日、芝浦に 帰港した海南丸は、5万人の市民による絶大な歓迎を受け、夜には早大生を中核とした学生約5,000人が提灯行列を行われた。こうした華やかな歓迎とは裏 腹に、帰国後、後援会が会費を遊興飲食にあてていたことが発覚、その責任を白瀬が負い、4万円の借金を背負い、生涯その弁済につとめている。探検を記録し たフィルム『日本南極探検』は、いまも、残されており京橋のフィルムセンターで見ることができる。


和21年(1946年)9月4日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)にて、腸閉塞が原因で死去。享年85歳であった。次女が間借りしていた魚料理の仕 出屋の一室の「床の間にみかん箱が置かれ、その上にカボチャ二つとナス数個、乾きうどん一把が添えられた祭壇を、弔問するものは少なかった。近隣住民のほ とんどが、白瀬矗が住んでいるということを知らなかった。」


「我れ無くも 必らず捜せ 南極の 地中の宝 世にいだすまで」


以上は、Wikipediaと白瀬南極探検隊記念館の公式ホームページを参考にして纏めました。誤り、不正確な点がありましたら、是非、メールにてお知らせください。